先日出張先の京都市内で、近道をしようと公園の中を歩いていると、二人組の女子高生に声をかけられました。
聞けば、食品の安全性についてのアンケートを取っているとのこと。
どうやら学校の課題のようでしたので、地元の人間じゃないけどいい?と確認した上で答えてあげることにしました。
一人がスケッチブックに書いた質問を紙芝居的に見せて、もうひとりがインタビューするという形式。
外国人に聞くことも想定しているらしく、質問は英語でも併記されています。
それで、まず最初の質問がこれでした。
「食品添加物についてどう思いますか? 危険 OR 安全」
私の答えは「認められたものを 認められた量 使えば安全」
二人がちょっと「え?」という顔になったので
「栄養にならなくても 体から排出されちゃうわけだからね」
と補足説明しました。
その後も二人の食の安全にかかわるインタビューに答えながら、私の気持ちはズーッともやもやしっぱなしでした。
なぜなら、私の回答を聞いて彼女らは取材ノートに「安全」とだけ書いたに間違いなく、「認められたものを認められた量」のところはカットされちゃうんだろうなぁ。と思ったからです。
人間の判断はどうしても「右か左」という2項対立的になってしまうものです。
なぜなら人間が行動を起こす時は、「左右」「前後」「上下」など、どちらか一方に方向づけが必要だからです。
もしそうせずに「右にも左にも行く」という判断をしたら、立ち止まるか、出来てせいぜい、「反復横跳び」でしょう。
しかし、行動の手前の「意見や考え」は違います。
もちろん最終的に「意見や考え」も行動に移るにあたっては大きな2項対立にまとまっていきます。
しかしそこに至るまで私達は、もっと細かい2項対立を積み重ねて「意見や考えを」練り上げていくのでははないかと思います。
たとえば今回の大きな2項対立「食品添加物は安全」VS「食品添加物は危険」の場合私の頭の中は
「添加物ってだけで もうヤな感じ」
「でも最近添加物で死んだってニュースは聞かないな」
「いやいや過去には粉ミルクへのヒ素混入や人工甘味料ズルチンによる中毒死、最近だって中国でメラミン入り粉ミルクによる健康被害があったばかりでしょう。」
「いや、それ昔の話!あと外国! 日本だってこれから何が出るかわからないでしょ!『食べてはいけない』なんて本も出てるし・・」
「あのさ、保存料や殺菌のための添加物がなければ、今よりもっとフードロスが増えるばかりか、食中毒だって増えちゃうよ!そっちの話はいいの?」
「自然のものを食べるのが一番いいんです!無添加が一番安全!」
「自然のものだって毒だらけでしょ!食べられて嬉しい生き物なんてそういないんだから、みんななんかの毒を持ってるの!それを大きな肝臓が解毒しながら生きてるの!君もうお酒のんじゃダメね!アルコールを分解する時にできるアセトアルデヒドは毒だから!」
「そんなぁ・・・・」
なんて私の頭の中の「安全くん」と「危険ちゃん」が細かく議論して、やっとお二人に話した「条件付きで安全」という2段重ねの二項対立にたどり着いたのだと思います。
インタビュアー役の生徒が「ユニークな回答ありがとうございます」と言っていたところを見ると、、調査結果では「食品添加物は危険」という意見が大多数を占めていたのでしょう。
もしも、大きな二項対立だけに注目し、少数派の「安全」について深く考察せず、多数派の「危険」にだけフォーカスしてしまえば、そこから単純に導き出される対策は「ストップ・ザ・添加物」。
もし具体的に行動に移されれば、安全くんが言っていた「フードロス」や「食中毒」の問題は議論されず、豊かな国と貧しい国、豊かな人と貧しい人の「食の安全格差」は広がるばかりではないかと思います。
彼女たちがそこにしっかり気づき、「反復横飛び」を繰り返し、有意義な課題発表をしてくれることを願ってやみません。
それが不可能ならせめて「変なこと言ってるおっさんがおったなー」と気にかけてもらいたいと思い、発がん性疑いありというだけで使用禁止になった人工甘味料「チクロ」、実際に中毒死事件を起こした同じく人工甘味料「ズルチン」の話をしたのは、ちょっと余計だったかもしれません。