「現在(いま)を生きろ!」
いきなり昭和なこと言い出してすみません。
「お前は五木寛之か?」
「『本気と書いてマジと読みます』的な??」
「急にどした?」
などなど、お読みの皆さんからは、私に似つかわしくない言葉に総ツッコミが入っていることと思います。
実は先日、大好きな科学雑誌「ニュートン」を読んでましたら、
「人間は物理的に『今』を見ることはできない」
という記事が目に入ったんです。
記事によると
・我々は光を目がとらえて物を「見ている」
・光の速度は有限である(秒速30万キロメートル)
・したがって「今」あなたが見ている「もの」は、少しだけ過去の状態の「もの」。
・今見ている太陽は約8分前の太陽。
・1m先の今見えている「もの」は3億分の1秒前の「もの」
ということでした。
「確かに物理学的にはそういうことになるなー」、と思いながら私の頭の中はまた、あらぬ方向に転がっていきます。
「今」と思った瞬間、今は過去になっていく。
方丈記ではないですが「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」
五木寛之は「今を生きろ」と言うが(言った気がする 適当)、今を切り取ることができない以上、それは無理なんじゃないか?
それだったらなにか?今を少し先取りして、少しだけ先の「未来」を生きれば良いのか?
実際、飛んでくるボールを取ったり、ラケットで打ったりするときは、ボールのいきそうなところに向かって走っていくよね。
しかし昔から「一寸先は闇」なんてことも申します。
前回書きました通り、最近急に「VUCAの時代」とかしたり顔でおっしゃる方もいますが、未来の予測が難しいのは、ずーっと昔からのこと。
ユカタン半島に直径10-15kmの巨大隕石が落ちて滅亡した白亜紀の恐竜たちも、その瞬間まで呑気にシダの葉を食んでいたに違いありません。
今を生きるのは無理だわ、未来は予測不可能だわ、ほんとにどうしたら良いのか?
もう何もせず、何も考えず、ひたすら確定した過去を思い出しながら生きるしかないんでしょうか?
まあ、健全な読者の皆さんなら考えないようなことを、ウジウジと移動中やら、ベッドやらバスタブの中やらで考えていたわけですよ。
そうしましたら、ずいぶん昔に見たこんな図を思い出すに至りました。
縦軸に時間の流れ、横軸にいろんなことの起こる幅をとり、現在を表す点より下を過去、点より上を未来と考えます。
過去はいろんなことがあったので一直線ではなく蛇行した線で表します。
(過去については量子力学とかでいろんな解釈がありますが、ここでは確定している、と考えます。)
未来は確定していませんが、近くの未来は過去や現在の制約を受けますので狭い幅で物事の起きる確率は高く、かといって確率の低いところも先述の通り、全くないわけではなく十分起こり得る。
そして先に行けば行くほど様々なことが起こる確率が増えていきます。
横軸からY字状に線が引かれているのは、理論的には計算できるが見ることができない「虚時間(二乗するとマイナスになる虚数で表した時間)」を表すそうです。
そして現在を表す点は、グイグイ上に進んでいき、今が過去に、未来が今になっていきます、
未来はいまに近づくほど確率の幅が狭まってきて現在で一つに収斂して1点になり、蛇行する過去として確定していく、というわけです。
「今」が点であり、見た時にはもう「過去」、である以上、今を生きるということは「無心に生きる」ということになるのでしょうか?
これだけだと、ただのお坊さんの説法みたいで、なんとなくわかったような気にはなりますが、何をどうしたら良いのかさっぱりわかりませんね(お坊さんごめんなさい、バチを当てないでください)。
そういえば、往年のロックシンガー甲斐よしひろさんの「ヒーロー」に
♪ 今が過去になる前に 俺たち走り出そうぜ ♪
と言うくだりがありました。
なるほど! もしかすると、「今」は物理学的な点ではなく、走り出せるくらいの時間の幅を持った短い線分として考えるのが良いのかもしれません。
こうして私なりに得た「今を生きる」の結論は
短い時間の幅を持った「今」を
・過去を振り返り予測を立てて、その時が来たら無心に事にあたる
・予測がうまくいかない時には、すでに過去になったととらえ、次の予測を立てる材料ができたと喜ぶ。
・うまく行った時はただ無心に喜ぶ。おそらく成功には偶然の占める要素が多いので大した参考にはならないが 後々思い出して喜びを反芻するために、記憶にとどめておく。
ということになりました。
さらに、過去から引く補助線が長く、詳細なほうがより予想の確率が上がる。
なので
・失敗を恐れず色々体験して、過去の事実を豊かにしておくこと。
・様々な歴史を調べ、精通しておくこと。
・その上で直近の事例にとらわれず大胆な仮説を立てていく事。
が、勝率を上げることになるのかな。
大上段に振りかぶったものの、結論は極めて常識的なところに落ち着きましたが、そこに至るルートが五木寛之もびっくり(たぶん)なルートだったと言う事で今回はご容赦ください。
☆最近「ホログラフィ理論」という「世界は2次元の平面で構成されていて、いわゆる3次元空間と時間は私たちがホログラム(立体写真)を見て感じるような錯覚に過ぎない」というものが提唱されているそうです。でもまあ「錯覚」と言われようとなんと言われようと、現代の私たちは「時間の流れというのを感じる」というお約束で暮らしてますのでここでは、時間は「ある」前提で話をさせていただきました。