Vol.45_生きてお詫びをしてほしい 切腹文化にさようなら!

【速報】「大丸別荘」前社長が死亡 自殺か “湯入れ換え年2回”問題で引責辞任 福岡県

「また起きてしまった・・・」この報道に触れ、こんな思いです。

「死んで詫びろ!」とか言う人もいますが、ほんとにやる事はないでしょ?と言う気持ちです。

今回のケースのように具体的な被害がないのに、死ななければいけないところまで追い込まれるのは、ほんとにやった事と罰の釣り合いがとれてないと思います。

(たとえ被害者、死人が出たとしても、それでも自殺を肯定できません)

「死んでお詫びをします」という日本人の切腹は、平安、室町のころに始まり、戦国から江戸時代に至ると、文化と呼べるまでに開花します。

忠臣蔵をはじめとする数々の切腹シーンは、文楽、歌舞伎、講談で盛んに語られました。

もしかすると、戦国時代や江戸時代の切腹は一つの必要悪だったのかもしれません。

今とは違い、農薬も化学肥料もなく、食物の生産と人口が拮抗していた時代のことです。

生産能力を持たず、禄をはむだけの寄生階級である武士層には、不始末をした人間を生かしておく余裕などなかったのかもしれません。

また、主君が死ぬと家臣が追腹を切るのも、治世の世代交代のためには必要なことだったのかもしれません。

その後、明治・大正・昭和と時代は移りますが、戦時中にはこんな言葉が生まれます。

「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」

軍人勅諭を補完する目的に1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した「戦陣訓」と言われるものの一部です。

実際にはその後「死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」と続いて、「捕虜になっても死んでもダメ、だから勝つんだよ」と言っているんですが、この二律背反する一文が、結果的には玉砕や、自爆攻撃(いわゆる特攻)、沖縄戦や南洋での民間人まで巻き込んだ大量自決を生み出してしまいました。

しかし、言葉通りの生存競争もなくなり、命の重さが増す現代において、失敗した人間が死ぬというのは、社会的損失が大きすぎます。

なぜなら、その人がそこで何も語らず死んでしまうと、まさしく「死人に口なし」。

その人が失敗や不始末で得た貴重な体験や知見が、後世に語られなくなってしまうからです。

その結果、いつまで経っても集団としての経験値が上がらず、何が起こるかというと「この道はいつか来た道」の繰り返し。

日本が歴史上いつもいいところまで行ってコケるのは、私は「切腹文化」のせいではないか思います。

タイトルに入れた「切腹文化」は造語ですが、生命を失わないまでも、失敗や不祥事を起こした者は責任をとって役割を降り、その後その件に関しては黙して語らないことを良しとするような私たちの文化のことです。

例えば「引責辞任 2022」でググると「似た記事を除く」で103件ヒットします。

これを書いているのは2023年3月ですが、ここ1ヶ月だけでも「某ゼネコン社長」「某政党党首」「某百貨店社長」「某県会議長」「某区選管委員長」「某バスケットチーム監督」が「引責辞任」しています。

まあ、中には辞任後も世にはばかるタイプの方もいるかも知れませんが、事実上の引退に追い込まれる方も多いと思います。

江戸時代の学者(誰だったかは忘れました)が江戸時代末期に流れ込んできた西洋の優れた文物を目の当たりにして、

「毛唐(西洋人)の学者は我が国のそれと比べて優秀ではないが、ここはこうなった、ここは分からなかったと、きちんと文書で次世代まで伝える風習がある。

かたや我が国の道を極めた者は、それについて多くを語ろうとせず、文書も残さず生涯を終える。

これが優秀なはずの我が国が西洋に遅れを取った理由だ。」

と語ったと言われています。

また、太平洋戦争が始まった当初、日本の戦闘機はアメリカ機に対してその性能でかなり有利に立っていました。

しかし人命重視で設計されたアメリカ機は、たとえ日本機に撃墜されても、パイロットが落下傘で生き延びて経験を積むので、熟練度が増すばかりでなく、彼らのアドバイスで機体の設計も運用も向上していきました。

しかし日本機は設計上も運用上も人命軽視だったため、撃墜されたパイロットはほとんど生還できず、ベテランパイロットがどんどんいなくなり、死人に口なしですから機体の設計のフィードバックもなく、その差は開く一方。

最終的には若く未熟なパイロットを、進歩の進まない機体に乗せて、悲惨な自爆攻撃をするしか他に方法がなくなってしまいました。

私たちは速やかに「切腹文化」に別れを告げるべきだと思います。

健闘むなしく失敗してしまった人も、悪いと分かっていて不祥事を起こしてしまった人も社会的な死や身体的な死に追い込んで「口なし」することはやめる。

その上で反省にしろ主張にしろ、思うところは語ってもらい、その原因をしっかり調査する。

こっちの方が断然集団として利益になる上に、人道的ではないでしょうか?

サワダは社会人になってまもなくバブル景気が来て、その崩壊も体験しました。

戻った仙台でも倒産した会社の社長が世間に出れなくなったり、実際に命を絶ってしまったという事例もよく見聞きしました

その後、令和に時代は移り、「失敗学」の発展や「やらかし先生」のおかげで、バブルやリーマンの頃より失敗に対して寛容になってきた日本、ここで逆戻りしてもらっては困ります。

不祥事を起こしたり、失敗してしまった人に対しては「どうしてくれる!」ではなくて「次はどうしますか?」と問う世の中になってほしいものです。

そうなれば私サワダも、さらに派手な失敗ができるというものです。