今回は前回のお約束どおり、「日本史ロジスティックス決戦!」ということで、日本の歴史からロジスティクス上手ベスト3とワースト3の人物について書かせて頂きます。
一応前回のおさらいとして、「ロジスティクス」は通常言われる「物流(物理的流通」とか「運送業」という意味ではなく、
「最前線に最適なタイミングで最適な量の作戦資源を届ける」と言う意味だと、捉えてください。
軍事でいうと最前線の兵士に、食料、武器弾薬、軍服や軍靴などの装備、息抜きのリクレーションなどが、いつも適正量あるようにすること。さらには各戦線に必要十分な兵力を揃えること、軍事用語では「兵站(へいたん)」と呼ばれています。
太平洋戦争当時、大日本帝国は物量が乏しい上にロジスティクスを軽視していたので、最初は破竹の勢いでしたが、最後は悲惨な負け方をしましたした。
戦後の経済競争でも途中まではうまく行っても、必ずと言っていいほど破綻を繰り返すのも、根はロジスティックスの軽視にあることを前回書かせていただきました。
私の言うロジスティクスというのは一般企業なら、商品・材料の適正在庫が守られていたり、業務プロセスがDX化されて社内手続き時間短縮がされていたり、最新のパンフレットがいつも必要量用意されていたり、コピー用紙やトイレットペーパーが、いつもちゃんとある(倉庫に在庫山積みとかはだめですよ、現金を食いますから)ということです。
ロジスティックスが重視されている会社は、お客様のために使える時間の総量が増え、順調に成績を上げることができます。
ロジスティックスが軽視されている会社は、商品・ツール不足や雑務の増加でお客様と接する大事な時間がどんどんなくなり、成績を上げられなくなっていってしまいます。
繰り返しますが「ロジスティックスを制すものが競争を制す」これが歴史から得られる教訓です。
そんなわけで私が押す日本のロジスティックス巧者ベスト3!紹介してまいります。
3位 「商品力は地味だがロジスティックスで勝ち抜く」しまむら第2代社長 藤原秀次郎
藤原秀次郎さんはあまり有名ではありませんが、埼玉の個店だった「しまむら呉服店」を、売上5500億、総店舗数2000超の「しまむらグループ」に育て上げた中興の祖、「平成のロジスティックス大魔王」です。
しまむらは、ユニクロや無印良品のように特徴のある衣料品を自ら製造し小売するSPAではなく、アパレルメーカーからの仕入れ販売、という昔ながらの小売業です。
そのせいか、ラインナップもわりと地味めで、商品にこれといった特徴がありません。
そんな商品力が決して高いとは言えないしまむらがなぜここまで成長できたのかというと、それはズバリ、ロジスティックス力!
しまむらの朝、店長(ほとんどがアルバイトの女性だそうです)は出勤してくると、まず倉庫に行き、お店の商品レイアウトと同じ配置で並んでいる段ボール箱を手前から開け、中身をそのまま壁面のフックに陳列するだけで、補充が完了。
早朝、各店舗に商品を輸送するトラックドライバーさんも、出発点の物流センターの荷積み台から、ただならんでる順に段ボール箱を積みこんで出発、各店舗に着いたら倉庫のシャッターを開け、段ボール箱を荷台の後ろ側から順番に降ろしているだけ。
秘密は物流センターの中の人「コントローラー」。
コントローラーは前日閉店後にオンラインからP各店舗に必要な商品データを集めて、倉庫の自動仕分けシステムを使って必要な商品をお店のレイアウトごとに段ボール箱に詰め、レイアウト順に荷積み台にあらかじめ並べておいているんです。
つまり、お客様が「商品を手にする」という行動の前工程で、トラック内での段ボール箱の選別や、店舗倉庫内での商品仕分けなど、面倒なノウハウやスキル、そして時間(=コスト)が必要になる業務は一切発生しない仕組みになっているわけです。
お店は、毎朝その日必要な商品が欠品のない状態で開店を迎えるので、お客がお目当ての商品がなくてお客様が他店に浮気してしまう「販売機会の損失」もほとんど発生しません。
藤原氏の前職はプログラマーだったそうですが、なんとなくうなずけますね。
またしまむらバイヤーは「4つの悪」(返品、赤黒伝票、追加値引、未引取り)の追放を公約し、そのフェアな取引商行為によってサプライヤーであるアパレルメーカーとの関係を深めているそうです。
藤原氏、しまむらについてはもっと書きたいことがいっぱいありますが、またいずれ。
2位 日露戦争における旅順攻略 「海上ロジスティックスを守り抜いた日本の勝利」
第2位は、個人というよりは一連のプロセスに関わった、当時の帝国軍人たちを選びたいと思います。
日露戦争は一言でいうと不凍港を求めるロシアの南下策と、東アジアの権益を朝鮮半島・満州に求めた日本との衝突から生まれました。
なので、戦闘の全ては朝鮮半島と満州方面に向かう直線上で行われました。
両国とも戦線と本拠地(東京・サンクトペテルブルク)が、日本は海を挟んで、ロシアはシベリア平原を挟んで遠く離れており、どちらも心臓である戦線への血管とも言える「兵站線が伸び切った」状態にありました。
一般に兵站が伸びれば伸びるほど、その補給力は劇的に落ちていきます。
つまりこの戦争は「最前線に最適なタイミングで最適な量の作戦資源を届ける」ロジスティックス力をどちらがキープできるか、の戦いであったとも言えます。
地理的に比べれば9000Km対2000Kmで日本の兵站線のほうが短いですが、海を挟んでいるので補給用船舶の航行の安全が必須であったことを忘れてはいけません。
しかも国家予算費比で7倍くらいの国力の差があり、兵力量で日本側はかなり不利。
日本はもし日本海の制海権を失えば敗北間違いなしの状況でした。
そこで日本海軍は兵站線上の日本海での制海権をおびやかす、ロシア太平洋艦隊を奇襲攻撃と機雷敷設で、中国北部朝鮮半島の根元にある旅順港の中に閉じ込めることに成功。
さらに乃木希典大将率いる陸軍第三軍が、13万人の兵力の半数近い6万人を失う猛攻で旅順を降伏させ、日本は当面の制海権を確保します。
しかし、大兵力を有するロシア軍が、東欧ラトビアの港で待機していたバルチック艦隊を7ヶ月もの大航海でインド洋経由で東南アジアのマラッカ海峡に移動させ、日本連合艦隊を殲滅すべく日本海に移動中、という日本側を震撼させる情報が入ります。
バルチック艦隊が決戦地である日本海に来るのには、対馬海峡、津軽海峡、樺太を通る宗谷海峡航路の3ルートがあり、どのルートを通るかロシア側は当然秘匿していました。
「日本危うし」と迎え撃つ日本海軍は、必死の探索を試みましたが軍用飛行機がまだないこの時代、なかなか手がかりをつかめません。
しかし、その秘匿航路を神がかり的に的中させて対馬海峡で待ち伏せした東郷平八郎元帥率いる日本連合艦隊は、向かい合う敵艦隊の射程内でターン(東郷ターン、T自戦法、と呼ばれています)し、相手に船腹を見せたノーガード陣列から全船の右舷全砲門を一斉射撃する、という超攻撃的戦法で逆にバルチック艦隊を殲滅。
さしもの大国ロシアも海軍力を失って戦争の継続を断念、ギリギリで兵站を確保した日本も人的にも経済的にも傷だらけではありましたが、なんとか戦勝国となったのでした。
もし、日本の連合艦隊の予測が外れ海上の兵站をバルチック艦隊に絶たれていたら、日本は独立国の地位を保つことはできたのでしょうか??
1位 豊臣秀吉 「戦闘より兵糧・築城のエキスパート」
戦国の世にあって、兵站という言葉に相当する「兵糧(ひょうろう)」の意味を一番わかっていたのはかの太閤豊臣秀吉(前文では欠点を書きましたが)ではないかと思います。
彼は卑賤の出でしたが、紆余曲折あって織田信長の家臣になり、主に普請(城や道路の建設維持)や台所(経理)を担当した後に数々の城攻めで武功をあげます。
しかし彼の城攻めは柴田勝家のようにしゃにむに軍勢で攻め立てるのではなく、多くの軍勢で城を包囲したり、周りの水路を切って水浸しにしたりして、城への補給を断つ「兵糧攻め」が多かったと言われています。
また主君信長が京都の本能寺で無念の死を遂げたとき、彼は遠く離れた今で言う岡山県で、毛利の城を水攻めにしていましたが、訃報を知るや素早く毛利と講和を結び、約230Kmの行程を10日間で走破し、あまりの速さに対決の準備ができていなかった明智光秀を山崎の合戦で倒しました(中国大返しと呼ばれています)。
1日23Kmという当時として異例の速さで戻ってきたことについて、「本能寺秀吉黒幕説」など、さまざまな憶測がなされていましたが、秀吉が街道の要所要所に食料の補給や宿泊の施設を作らせたことで十分可能であったことがわかってきました。
つまり中国大返しは秀吉のロジスティックスの勝利でもあったわけです。
山崎の合戦の勝利で信長の後継者として名乗りを上げた秀吉は、西日本・吸収を平定、兵力と時間をたっぷりかけた城攻め(合間に秀吉軍は宴会を開いたりしていたそうです)で小田原城に籠もった北条氏をじりじり追い詰めて屈服させ、天下統一を果たします。
秀吉の天下統一の足跡を見ると、弓槍を奮っての激しい戦闘や殲滅戦を避け、兵糧を断ったり、人心を混乱させるロジスティックス戦で勝ち抜いて行ったように見えます。
もしかすると武士階級の出身でなかったことが、彼の戦いぶりに影響しているのかも知れませんね。
また、秀吉一世一代の失敗として語り継がれる、明の征服と朝鮮の服属を目指して行われた「文禄・慶長の役」ですが、じつは秀吉は開戦にあたり、今の佐賀県の港に名護屋城という、大阪城に匹敵する強大な前線基地を作り、そこに兵糧の蓄積をしっかり行っています。
つまり気分で開戦したわけではなく、やる気満々、兵站の準備をじっくり行ってから事にあたっていたわけです。
事実、文禄の役で日本軍は朝鮮半島をほぼ制圧し、朝鮮の王は首都を脱出、秀吉軍を追い払うために派兵された明軍は陸続きにも関わらず先に兵糧が尽きてしまい、明国は日本との講和を模索することになりました。
結局、慶長の役の途中で秀吉の寿命が尽きてしまい、残された武将たちは明と最終講和を結んで退却しました。
実は秀吉統治下の当時の日本は戦国の世で鍛えられた50万の将兵を持ち、鉄砲の保有数などからみると、世界でもトップクラスの軍事大国だったそうです。
逆に当時中国の王朝だった明は末期を迎えており、慶長の役から30年もたたないうちに、満州の女真族の族長ヌルハチ(後に清の初代皇帝太祖)に滅ぼされてしまいます。
ことの良し悪しは別として、もし、秀吉にもう少し寿命があって、しっかりした後継者が兵站を重視しながら戦争を継続していたら、一体どうなっていたのでしょうね??
もしかすると、ローマを世界帝国にしたジュリアス・シーザーの東洋版になっていたのかも知れません。
・・・残念ですが、ここで紙数(と気力)が尽きてしまいました。
でもここまで読んでいただいた皆さんは、商品力・戦闘力はもちろん大切だけど「最後はロジスティックスを制したものが勝つ」という私の主張がおわかりいただけたと思います。
この続きはまた次回のお楽しみ!
次回は「戦闘力が高くてもロジスティックスで破れた」日本史上のワースト3のみなさんを紹介しようと思います。